- トップ
- ライブラリー
- 静幹の硯エッセイ
|
|
静幹の硯エッセイ |
|
雨宮静軒述
昭和43年10月4日午後1時 雨宮静軒(76才) 東京ロータリ倶楽部に於ける講演 |
|
目次 |
- 支那の硯
- 日本の硯
- 日本における硯の産地
- 甲州の雨端石
- 支那端渓石
- 伊太利へ留学
- 犬養木堂先生
- 犬養翁に伴われ支那へ二回
- 文部省美術展覧会
- 富士川の河鹿
- 米国へ硯の上産
- 故吉田茂先生を通じての大硯
- 宮内庁への奉献硯
|
|
会長の小野先生が、私に今日硯の話をせよとの御仰せであります。私は田合に生活し特に口べたでありますから皆様の尊い時間によく分らねば困ると案ずるものであります。 暫くの時間をおかし下さい。 |
|
1.支那の硯 |
硯は支那四千年の歴史をもつ古いものであります。日本の文化も大体支那より渡来せるもの。 |
|
2.日本の硯 |
日本で硯を作り始めたのは奈良朝時代聖徳太子の頃と聞いて居ります。
但し此時は土で焼いて硯の型を造つて用いました。今正倉院に残つて居ります。
段々文字を書く様になり、日本各地から産出されました。 |
|
3.日本における硯の産地 |
中でも山口県の赤間硯は量産第一でありました。
官城県の玄昌石、陸中の三井石(赤石)、水戸のダイゴ石、近江の虎班石、紀州の那智石、岡山の高田石、熊本の龍含石、日向の紅渓石、静岡の青班石、信州の伊那石、甲州の雨端石等到る処に産出されました。 |
|
4.甲州の雨端石 |
私の住む甲斐の雨端石は二百年前元緑の始めに身延山参詣の祖先が早川の河原で原石を拾いボソボソ硯を作り始め、私で十一代二百余年の間連続して製作して参りました。
原石採堀の場所は身延七面山の西麓南は静岡県安倍川、西は長野県に界した雨畑川の上流であります。
昔武田信玄公が金鉱を探した同じ場所であります。谷深く非常に不便な場所であります。
但し藻山(周囲の岩か)強固ですから杭木の要なくダイナマイトで岩を砕き硯石の脈は手のみで採堀するのであります。細い硯石の脈は地球の中心迄つづいて居るかと思れます。そして海抜千メートルの近い岩に貝殻が附着しております。昔海底である事が証明されます。採堀現場は約五百米ばかりの坑内で採石をつづけて居ります。産出量が少く一般の市販には間に合いません。昔から官中の御用や一部特定の方々の御用をつとめて参りました。
扨、硯の文字は石を見ると書きます。第一石質がよい。次に形式彫刻其他鋩であります。日本も各地から産出致しますが、鋒鋩のあるものが少い。硯石は海底の砂が何十万年の永い間圧縮せるもの、水成粘盤岩と申します。その砂の中に砂鉄が多く含んでおるものが良い。之を鋒鋩と申します。鋒鋩が墨をかみへらすのであります。鋒鋩のある石は一、二分すれば墨が濃く出ます。硯を求むる場合はよく注意して下さい。 |
|
5.支那端渓石 |
第一に支那端渓と申しますが大体端渓石は鋒鋩があります。
其他の支那各地から産出するものは鋒鋩が無く似て非なるものであります。よく見て下さい。 |
|
6.伊太利へ留学 |
私は硯の家に生れ四十五年前東京美術学校を出て石の国伊太利へ留学しました。
二年の後父危篤で郷里へ戻りました。父の友人犬養木堂先生が、父の代り私を世話する事になりました。
比の時静軒の名を受けました。
日く御前は馬車馬になり世間を地つてはいけない、作品は死後数百年を経ても人の口にのり呼呼之が静軒の作であると歌われねばいかぬと随分きびしぐ而も二十年の間「かむ」様に説明されるのでありました。 |
|
7.犬養木堂先生 |
今考えますと老生今日あるは全く犬養木堂先生の指導の賜であると確信致します。 |
|
8.犬養翁に伴われ支那へ二回 |
正木美術学校長に随伴支那支部各地の硯石を見て廻りました。
昔から作者不明の硯が家に沢山保存してあります。
宗祖父の純斉も父の英斉も大方中国の硯譜等を参考に作られましたので大部分が支那式であります。
偶々私の時代に西洋文化が入り始め、絵画や彫刻でも新しい写生や図案が消化されつつあつた時で、
正木先生指導にもよるものですが、どうも支那風のものばかりで面白くない。
日本独特の硯を作つて見たいと思い立ちました。少々綺麗処もあるがそのせいではないかと思います。
或時竹内栖鳳先生に波の硯の相談に行き、先生日く、よかつた前年夏沼津に滞留し津波が来たというのでそれとばかり丹前で体を包み人夫五名にかつがれて海岸に行きその津波を見ました。
波というものは国土をさらうと云う程強烈なもので丁度比の戦争中の作品にはよいですねと教えられました事もあります。
私は世間知らずで今回迄に金の勘定さえも知りません。只鑿を持つて硯を作る丈けの才能しか無いのです。
町長も二期つとめましたが演壇へ立つた事もありませんでした。総てを家内がやつて呉れました。
よくも今日迄生存したと思い起します。私の妻は貧乏の私の家に来て四十五年の間忍耐一筋に私を守つて呉れました。
余事ながら申し上げます。
近頃若い者は機械機械と機械を用いますが昔から現在でも硯は手作りであります。
石の質のせいでもありますが、鋸で周囲を切り柄のついた鑿を肩にあて腰の力体全体の力で削り前後を
五種類の砥石でみがきます。肩に鑿柄がなじむまで痛くて痛くてよく父に叱られたものです。
手で造ると云うのは面白いものでありまして多分想像で御座いますが、械械ですれば真直ぐはキッチリ真直ぐになつてしまうが、手でありますと心のなゝに曲つたり、真直ぐにもなるのであります。
大変馬鹿げたのろまの仕事でありますが、うれしい悲しい、心のさまは手でないと現せないのであります。 |
|
9.文部省美術展覧会 |
偶々昭和六年文部省美術展覧会に工芸部が設けられ、硯を出品する事になりました。
折角学び得た支那式をとり止め、創作にかゝりなした。此に日本画家の竹内栖鳳先生が京都から湯河原へ移住して参りましたので年間ニケ月宛図案の稽古を致しなした。私の作品は比のせいか少し椅麗であります。
日展など二十数回出品致しました。 |
|
10.富士川の河鹿 |
一度私の住む富士川の河鹿を二十数匹とらえ、金網に入れ池の上において数ヵ月眺めているうちに
或時五疋の河鹿が片隅により恰も家族会議をして居る姿をとらえ之を彫刻して出品特選を受賞した事もありました。
朝鮮政務総監大野緑一郎先生の招さで鮮展の参与となり十、十一、十二、参年続いて鮮展の審査に列しました。
その都度一ヵ月程滞留朝鮮各地の硯工場を見又工員一同を集めて講習会をやりました。朝鮮は石の国硯石の産地五ヵ所あり技術も相当、値段も安いのですが各工場ともストックが多く甚だ不振でありました。
此の事を大野総監に報告、 一つ立て直しをやらなければと忠告致しました。
総監日く、そのか、それでは野口詢氏が近く京城に百貨店を作ると云うから比時全土の硯を買収して記念品に配り掃除を致そう等と心配されました。私共審査員五名は満洲から北支、中支、南支を経て帰国致しました折柄支那事変が始り、此の事も中止となり野口詢氏は日本に戻り伊豆韮山で病死しました。
大野総監は只今八十二才吉祥寺に住み仲々の元気であります。時折り御目にかゝり朝鮮の懐旧談を致します。
最近の皆様は多事多忙で硯で墨をすります事がよくよく少くなりました。そこで私は考えました。
先づ世用に適せねばならぬと思い、立体の彫刻を考えつき実行して居ります。 |
|
11.米国へ硯の上産 |
前年池田勇人氏が最初の総理として米国へ土産にしたいからよいものを作れと望まれました。
外人に分らぬものを作るのは勿体ないと御断り致しましたが、必ず分らせるからと熱心でした。
丁度私の家の庭にふしかんが実つていましたのでそれを写しニギリコブシ位の硯を作り紙押えによろし、
墨をすれば硯と両用をかね、十個程作り差上げました。大変評判がよかつた想です。 |
|
12.故吉田茂先生を通じての大硯 |
昨年副大統領のハンフリー氏が来日四十日前吉田茂氏へ書簡で、日本の名人作硯をもつているが、
いかにも小さく墨がすれぬから自分が東京へ行く迄に大きなものを一個作らして呉れとの申出でありました。
吉田茂氏の依頼で八寸大のものを作り納めました。
やはり良きものは誰にも分ります。
美術は説明をいりません。只今日本では八幡製鉄の藤井丙午先生、富士鉄の永野重雄先生、三菱電機の高杉晋一先生等が愛硯家で、私の支援者でもあります。
大蔵の水田三喜男先生、前尾繁三郎先生も大の愛硯家であります。
どうか皆さん御多用ではありますが朝夕の一時硯を跳めて、心を養つて下さい。 |
|
13.宮内庁への奉献硯 |
私の最近作は前年官内庁宇佐美長官より御呼出しあり、宮中新御殿への備品として予算百万円程度のものを一品作るようにとの御内命に接し、図案その他御一任下さる旨、有難く拝受致しましを。
丁度十二月中旬鹿児島県出水に渡来せる千百八十三羽の鶴を十日間写生して之を製作、昨年暮納入申しあげました。
鹿児島県は年間百万円の予算で管理人二名が毎朝餌を与えて居ります。
市長渋谷透氏も大変喜び、鹿児島の鶴が宮中に入るとは名誉の事でもあるの一台の車に庶務主任をのせ連日案内されました。御案内の如く鶴は人を嫌い仲々近くへよりません。そこで五十米近くへ餌を蒔き管理人小屋の前に棚をかけ稲をつるしてこちらが見えぬ様に致し、辛じて舞い下る状餌を啄む様、舞い上る姿など倶に写しました。
図案三様をつくり宇佐美長官に見せました為之でよろしいが当皇居の香りを現せと、そこで御城の老松を二つ加えました。鹿児島県出水の現場は入代海の防波堤に昔殿様が植えた松が海岸一面につづいておりますが、鶴は決して松にとまりません。棒足で木には止まれない事を確認致しました。よい収穫でした。
三十余年前私の知人で大阪の検事長を勤めた遠藤常寿氏が管内の巡視中但馬の村落で千年の老松の上に巣寵りせる鶴をカメラに写し、小生へ送つてくれました。今尚大切にして保存してありますが今考えますと之はコーノトリであります。
出水の二万町歩もつづく千拓地はどじようや、たにしが居り自然の餌場でもあります。
海は遠浅で魚貝類も多く真に縄の適地であります。十月下旬に渡来、三月上旬にシベリヤヘ戻る由最初は参内の方々が署名する記帳用と申されましたが遂二か月前官内庁よりの手紙で、陛下に御覧に入れました処大層の御喜びでありましたので、陛下の御居間へ供える事に致しました 。
記帳用の硯は小形四個を製作する様にと申してあります。 老生最後の喜びで只今之を記念して小さいものを作つて居ります。 何卒御引立の程を、長時間老人の話をおきき下され、真に有難う御座いました。 |
|
昭和四十三年十月四日午後一時 雨宮静軒 (七十六才) |
東京西ロータリ倶楽部 各位 |
|